【コラム】『ロマンとそろばん』~ソフト会社CEOの独り言~

第37回 行方不明の友人に捧ぐ 2016年11月16日配信

私には、時々連絡を取り合っている海外の友人が何人かいる。
以前、仕事を通して知り合った友人がほとんどである。
国をあげると、韓国、台湾、ベトナムとアジアの他に米国にも数名いる。
彼らとは、今でも、Facebookやメールなどで連絡を取り合っている。

その中でも親友に近い韓国の友人(Mr. Suk)とは、私が韓国に行った際には必ず連絡して夕食を共にする。反対に彼がこちらに来たときは同様に必ず電話が入り、私がホテルを訪ねて行くことになっている。

そこでは食事をしながら、一緒に仕事をしたころの懐かしい思い出話や、家族のこと、仕事のこと、友人のこと、景気のことなどを、時間を忘れて話し合う。

日本の仲間や友人でもこれだけ多くのことは喋らないと思うぐらい目一杯話し尽くす。彼は日本語ができないので、私も仕方なく思いつく限りの単語を並べて、身振り手振りを交えて英語で話す。

インターコムの社員旅行で韓国へ行った際は、ずいぶんの歓迎を受け、また楽しいパーティーをしたのが良い思い出である。

今日は、このMr. Sukと比較して友情などをキープできなかった大好きな台湾の友人(Mr. 陳)について書きたいと思う。

今から20年ほど前、通訳を伴って1人の台湾人(Mr. 陳)が我が社を訪ねてきた。

Mr. 陳は、台湾でパソコン向けの特殊な高速ケーブル類を生産している小さな会社の経営者だった。通訳を通して話を聞いてみると、どうやら、そのころ当社が輸入販売していた米国製ファイル転送ソフトのメーカーから紹介されて、その商品向けのケーブルを売り込みに訪ねてきたとのことだった。

当時、米国から輸入していた標準のケーブルは値段が高く、利益のかなりの部分を食ってしまっていた。したがって、この売り込みは、まさに当社にとっては「渡りに船」で、願ったり叶ったりの提案だった。

値段はオリジナルと比べてあきらかに安価で、我々が要求した量産体制も整っているとのことだった。早速、サンプル品を評価し、日本のユーザーに受け入れられる品質レベルであるかどうかの検査を実施することにした。

と同時に、最後の確認として、実際に彼らの会社をこの目で確かめるため、後日、台湾本社と実際の生産拠点になっている中国の東莞(トンガン)へ工場見学することになった。

当時、台湾の多くの企業が、すでに中国、米国、ヨーロッパなどに足場を築き、日本の企業以上に、グローバルビジネスを展開していた。

彼らもその例に漏れず、台北市にある本社はオフィスとわずかな従業員だけ残して、数年前から生産拠点を人件費の安い中国に移していた。

そうしなければ、ケーブルや単純な電子部品など付加価値の少ないプロダクトでは、世界の市場では到底やっていけないほどの状況に追い込まれていたからである。

我々は、香港から50人ほどの乗客が収容できるタグボートのような形をした高速艇で中国に越境した。例によってスローな入管にイラつきながら、何とか入国し、港から東莞まではタクシーで高速道路を猛スピードで突っ走った。

目指す工場に到着すると、そこには“ドーン”と彼らの社名が付いた大きな建物が2棟待ち構えていた。工場は、台湾にある彼らのオフィスからは到底想像できないほど立派な建物で、門の入り口には2人の警備員が立ち、出入りする者を警備していた。我々が入る際には必ず決まって敬礼までする大袈裟な対応ぶりにちょっとビックリした。

この工場は中国政府(? または自治体)から無償に近い家賃で借受け、主にはケーブルを生産するための労働者の雇用が彼らの義務になっているとのことだった。

工場内に入ってみると、そこには大量のケーブルが積み上げられていた。主に米国やヨーロッパ向けに生産しているとのことだった。社員は200名ほど働いていただろうか。工場内を見学した後、ついでに従業員の部屋まで案内してもらった。

しかし、そこを見たときあまりにも日本と違う住居環境にビックリしてしまった。6畳間ぐらいの部屋になんと三段ベッドが2つも置かれ、ここで毎日6人が寝起きをしているとのことだった。

娯楽といえば、部屋に置かれた1台のテレビだけである。
これじゃ、まるで、昔、日本映画で観たあの『あゝ野麦峠』ではないか、と思ってしまった。

話を聞けば、ほとんどの工員さん(ほとんどが若い女性)が農村からの出稼ぎであるとのこと。最近の経済成長が著しい中国からは到底考えらない厳しい生活の一端を垣間見た気がした。

工場見学を終えたころにはすっかり日が落ちすでに夕食の時間を迎えていた。この後、私はまたビックリする経験をしたのである。Mr. 陳に連れて行かれたレストランは看板に「野味料理」と日本語でも解読できる漢字で書いてあった。私は、イノシシや鳥の料理でも食べさせてくれるのではと気楽に考えていたが、その想像は見事に外れた。

店に入ってから解ったことだが、ここは、カエル、ウサギ、ヘビ、鴨などの小動物を食べさせてくれる東莞でも有名なレストランとのことだった。さらに驚いたのは、我々がウサギをオーダーすると店先の小さな小屋から、店主が生きているウサギの両耳を“ヒョイ”と片手で鷲掴み、調理場に運んで行くではないか。

また、さすがにこれは食べることを躊躇したが、店先の小さな籠の中に、何やらグレーの毛糸玉のように小さくうずくまっている得体のしれない塊があった。興味本位に棒で突っついてみると、なんと、正体は3匹ほどの丸々と太った野ネズミである。

これも本当に食べるの? と中国人の胃袋には仰天し、郷に入れば郷に従えの精神で挑戦も考えたが、か弱い日本人の胃袋のことを考えると、さすがにこれは遠慮させてもらった。

それでも先ほどのウサギと、それからカエルと鴨をオーダーして食した。全部、肉と野菜を油で炒める中華風の料理だったが、味は見かけによらず美味しかったことを憶えている。

彼とは、こうした東莞での工場見学を機に、両社のビジネスや家族同士での付き合いを重ね、何年間もかけて絆を深めていった。

彼が台北市内に自宅を新築した際には大々的にホームパーティーを開いたり、あるいは彼らの招待で、台湾の最南端にある「台湾のハワイ」と呼ばれる墾丁(ケイティン)に両家族で旅行したり、正月には台北市内でニューイヤーを過ごして楽しんだこともあった。

また、彼らが来日した際には、箱根へ温泉旅行に出かけたり、ゴルフを楽しんだり、夜の赤坂や六本木などで飲食を共にしたこともあった。

しかし、こうした深い友情も、ITの技術革新が進み、OSがMS-DOSからWindowsに変わるころになると、いつしか彼らの強みだったケーブルのビジネスもLANや無料のインターネットにとって代わられ、ニーズの減少と共に、当社からも急速にオーダーが減り始めてしまったのである。

そして歳月の経過と共に、彼らのケーブルは当社にとってはまったくの無用の商品となり、いつの間にか当社の商品群から姿が消えてしまったのである。

「金の切れ目は縁の切れ目」ではないが、やはり需要が減れば、オーダーする機会やお互いに会う機会も減り、いつしか、まったく連絡を取り合わなくなってしまった。

本来、そうした状況でも友情の目を潰さぬよう、欠かさず連絡をしていればよかったのだが、忙しさにかまけて、とうとうその目も潰してしまった。

たぶん彼はケーブルビジネスから撤退をしてしまったのかも知れない。

その後、台湾の友人を介して、さんざん彼の所在を探してもらったが、その行方は今も解らずじまいである。噂によると、あのパーティーを開いた家にはもういないらしい。

そのとき、思ったことは、“Keep in touch” はとても重要だということ。
「思っているから大丈夫」とか、「何かあれば連絡が来るだろう」ではだめだ。

友人とは、どんなに離れていても、できる限り接しておくことの大切さが、今回のことで、初めてわかった次第である。

株式会社インターコム
代表取締役会長 CEO 高橋 啓介


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